画面の前で、ため息をついた。

ドル円ロング、1万通貨。エントリーから3時間経って、今は-43pips。証拠金10万円で計算すると、4,300円の含み損。

「ここで切るのはもったいない。あと少し待てば戻るはず。」

でも「あと少し」と思ってから、もう2時間が経っている。


「もったいない精神」がFXでは致命傷になる理由

日本人の「もったいない」という感覚は、文化的な美徳だ。食べ物を残さない。物を大切にする。コストを無駄にしない。この感覚が日常生活では美しく機能する。

ところが、FXの損切りと組み合わさった瞬間、この美徳が牙をむく。

「ここまで持ったのに、今さら切ったらもったいない」

「-43pipsのロスを確定させたら、それは取り返しのつかない損失になる」

この思考の根っこには、行動経済学でいう「サンクコスト(埋没費用)の誤謬」がある。すでに払ったコストは、未来の判断に影響させてはいけない。でも人間の脳は、そう簡単に割り切れない。

特に日本人の場合、「もったいない」という感情とサンクコストの錯誤が融合して、強烈な損切り抵抗を生む。-43pipsが-80pipsになっても、「ここまで待ったんだから、今さら切れない」という謎の義務感が生まれる。

…ちょっと待って。改めて考えてみる。「ここまで持ったから切れない」というのは、未来の相場とは全く関係のない話ではないか。

相場は、あなたが3時間待ったことを知らない。

なぜ-43pipsが-43pipsのままに感じられないのか

プロスペクト理論というノーベル賞を受賞した研究がある。心理学者のカーネマンとトヴェルスキーが明らかにしたことは、「人間は損失を利益の約2倍重く感じる」というものだ。

FX的に言い換えると、+43pipsの喜びより、-43pipsの痛みの方が2倍強く感じられる。

だから「損切りボタンを押して-43pipsを確定させる」という行為は、心理的にはものすごく重い。「確定させたくない」という抵抗は、意志が弱いからではない。脳がそう設計されているからだ。

さらに日本文化の「もったいない」が加わると、損切りへの抵抗はほぼ二重になる。

「損を確定させることは、損をしたという事実を認めることで、それは"もったいないこと"をしたということになる」

この思考回路が、含み損を60、80、100pipsと拡大させていく。

あるトレーダー仲間の話

会社の同僚にFXをやっている人がいる。「昔、ポンド円でひどい目に遭った」と教えてくれた。

最初のロスカットラインは-30pips。「でも、ここまで待ったから」と先延ばし。-50pipsになった時、「ナンピンすれば平均取得コストが下がる」と1万通貨追加。-80pipsで「もうすぐ戻る」。-120pipsで半ば諦めながら、「でも今確定させたらもったいない」。

最終的には証拠金維持率が100%を割ってロスカット。損失は13万円を超えた。

「あの時、最初の-30pipsで切っていれば3,000円の損だったのに」と彼は言った。「もったいないと思って動けなかったのが、本当にもったいなかった」

この逆説が、もったいないバイアスの本質だ。

「損切りはコストである」という思考への転換

損切りできるトレーダーと、できないトレーダーの根本的な違いは何か。

結論から言うと、損切りを「失敗の結果」と見るか、「ビジネスの運営コスト」と見るかだ。

コンビニは賞味期限切れの商品を廃棄する。廃棄ロスはコストとして計上する。「もったいないから廃棄せずに置いておこう」という発想はない。なぜなら、適切な廃棄が店全体の品質を保つからだ。

FXも同じ。-43pipsの損切りは「失敗の確定」ではなく、「次のトレードの資金を守るためのコスト」だ。

では、どう考えればいいのか。

私がやっている(試している、と言うべきかもしれない)のは、「もったいないバイアス逆転思考」だ。

「今切らないことの方が、もったいない」

-43pipsで切れば損は4,300円。でも今切らずに-100pipsまで持ち続けたら、損失は10,000円。その差6,700円が「切らなかったことのコスト」だ。もったいない精神を使うなら、「小さい損で切らないことの方がもったいない」という方向に向けることができる。


理屈では分かっているのに体が動かない、という経験は誰にでもある。そのために使えるのが、**「10秒ルール」**だ。

含み損が自分のルールのロスカットラインに達したら、画面を見ながら10秒数える。1、2、3…10。その間に「本当に今の状況に変化はあるか」を確認する。ない場合は、機械的に決済ボタンを押す。

10秒あれば「もったいない」の感情は一瞬入り込んでくる。でも10秒後には「ルールがある。ルールを守る。それだけだ」という判断ができる。


今日からできる1つのこと

トレード前に「今日のロスカット金額の最大値」を決めて、紙に書く。例えば「今日の最大損失は5,000円まで」。そして、その金額に達したら今日のトレードを終了する、というルールを設ける。

「もったいない」という感情は、損切りの瞬間には強い。でも損切り"前"のルール設定は、比較的冷静にできる。冷静な状態でルールを作り、感情的になった状態でも守れるようにしておく。これが「もったいないバイアス」への最もシンプルな対処法だ。


よくある質問

Q: 含み損が-50pipsまで広がった時、今さら切るのはもったいないですか?

A: その-50pipsはすでに「払い済みのコスト」です。今の問題は「これからどうなるか」だけです。もし今フラットな状態でその通貨ペアを見たとして、エントリーするかどうかを問うてみてください。答えがNOなら、迷わず決済すべきです。

Q: もったいないバイアスはどうすれば克服できますか?

A: 完全な克服は難しいですが、「損切り = コスト確定」という認識を繰り返し訓練することで薄められます。トレード日記に「今日切った損切り金額」と「切ったことで守れた資金」の両方を記録すると、少しずつ思考が変わっていきます。

Q: ナンピンはもったいないバイアスの一形態ですか?

A: そうです。「含み損のポジションに追加することで平均取得コストを下げ、損を取り返そう」という考えは、サンクコストへの執着から来ています。相場の見通しが明確に変わった場合を除き、ナンピンはもったいないバイアスが引き起こすリスクの高い行動パターンです。

Q: 損切りをしたくてもできない時、どうすればいいですか?

A: 逆指値注文(ストップロス)をエントリーと同時に入れておく方法が最も効果的です。損切りを「判断」の問題ではなく「自動執行」の問題にすることで、もったいないバイアスが入り込む余地を最初から排除できます。

Q: 日本人トレーダーだけが「もったいない」バイアスを持っているのですか?

A: サンクコストの錯誤は世界共通の心理バイアスです。ただし、日本文化特有の「もったいない」という価値観と損切り回避の感情が共鳴することで、日本人トレーダーの損切り抵抗が特に強くなりやすい傾向があります。これは意志の強さではなく、文化的な感情回路の問題です。